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日语毕业论文优秀9篇

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日语毕业论文优秀9篇

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对日语学科方面进行相关的研究能提升学生们在日语方面的认识。读书破万卷下笔如有神,下面金笔头网为您精心整理了9篇《日语毕业论文》,可以帮助到您,就是金笔头网小编最大的乐趣哦。

要旨 篇一

紀元3世紀ぐらいには、すでに日本列島と中国大陸の交流があった。大国文化に対する憧れを抱えて、中国への留学生が派遣された。遣隋使、遣唐使など、時代によってさまざまな呼び名があるけれども、彼らの背負った使命や志が変わることはなかった。律法、制度の導入につれ、東南アジアに盛んでいた仏教がますます注目された。仏教の伝入がもっと前のことであったが、最初はただ貴族たちだけの信仰となっていた。最澄、空海などの留学僧のおかげで、仏教が咲き誇る花のようにだんだん日本各地に、上から下まで広がっていく。しかし、たとえ仏教の世と呼ばれる平安時代派も、いよいよその時代を迎えようとした。時は紀元12世紀半ば、平家一族の盛衰史を生き生きと描いた『平家物語』における時代である。

様々な人物を刻んだこの物語が、壮大なる戦争の場面を見せてくれる。『平家物語』のシンボルとして、無常観がよく知られている。本論文はその「無常」の解読を検討しようと思って、三つの部分になっている。第2章において、まずは物語の紹介や粗筋などを見てみた。第3章において、前回に提出した問題に応じ日本化した仏教について説明した。第4章において、「無常観」の源について探究してみて、また『平家物語』における様々な人物の例を分析した。以上の研究を通して、『平家物語』とその中に溢れる無常観に対する認識を、もっと深めることができよう。

.2 藩神到来 篇二

すでに天下へと仏教が広げられ、ならば万民に信仰させ、国の安泰のため仏法を発展向上させるべきである。しかし、事実はそうではなった。国家を守護し制を固められると宣伝された仏教が、最初からも政治宗教となった。朝廷に守られ、お寺などがよく町の周辺で建てられる故「都会仏教」とも呼ばれた。興隆期となった奈良時代の日本仏教は、インドと中国での伝統仏教と違い、基本的な戒律さえも離れ、僧侶は民間へ伝教するようなことをせず、単なる貴族たちに仕えるだけである。ついに国の政に手を出すこともあり、朝廷を左右する勢力となってきた。こういう時期の仏教は新たな事物として政権争いに利用され、これも後に仏教の日本化の兆候となったわけである。しかし、寵愛を一身にしても、所詮外来宗教や政治道具である。律令国家の確立に伴い、の力がますます高き、蘇我氏一族を始末してからやがて君臨するようになった。伝統権威を代表する神道も言うまでもなく新たな高位に置かれた。大化の革新に制定した「大宝律令」によると、神の祭りなどを主管する官吏はから直々の任命、太政大臣同級の者であるが、仏教諸事を処理する機構はただただ治部省所轄の玄蕃寮であった。神高仏低の状態における仏教がよい発展と権力の拡大を求めるには、やむを得ず神道にしたがうことにした。その表現の一つが神社で経文の朗読を許し、いわゆる「神前念仏」である。

初期仏教がつよい政治性を持っているのを除き、民間へ広がることのできないもう一つの原因は、人々固有の観念そのものである。宗教というと、それが現世のことを第一に、生活の安定さや幸せさを祈るはずだと思われた。ですから仏教の来世主義、死後の世界に憧れる考えが一時に納得されるわけはなかった。一方、元来ただ神社に参ることで宿願をかなえることが可能であるが、もし仏を信じるならば、山ほどの戒律や決まりを守らなければならないという恐れもあり、あまりにも実用ではなかった。これはさまざま不確定な要素に囲まれ、尊崇や冷遇の立場にあった前途不明の奈良時代仏教である。

.2 物語の粗筋 篇三

さまざまな変革に迫られていた平安朝の日本は、大陸文化を積極的に吸収する一方、仏教も盛り人々の心に根強く留った。鑑真の東渡、唐招提寺の建設でますます興隆になりつつあった。中世の日本人は仏のことに莫大な関心を持ち、生活の面々にも影響された。平氏の創始者の平忠盛は、鳥羽上皇のため得長寿寺を建てから登殿ができ、一族繁栄の土台を築いたのである。各大寺の座主は必ず親王とか地位の高い公卿とかで担当され、仏教の重要さが言うまでもないことである。

貴族にも関わらず、庶民たちの敬う心も明らかに表わされていた。歌女の妓王は入道殿に捨て去られた後、世間に絶望し、ついに出家した。一時に栄華になった佛でも、「いづれか秋にあわで果っべき」という嘆きさえ出て、出家になったのである。現世が不順ならば、来世を求めた方が良い。妓王たちが出家し極楽を求めた果ては、後に後白河法皇 の長講堂の過去帳にも妓王、、刀自、佛などが尊霊と記録されていた。彼らの宿願が叶えたとしても、かなり憐れむことであろう。このように仏法興隆から二三百年の間に、仏教がだんだん本土化また日本化になり、自ら独特の精神教義が出てきたのである。しかし、時は仏法衰微の時期になった。武士豪族の争いで戦争を招き、天下が不安になり続いた。源氏を潰し都から追い払ってから、平氏はまつり事を独断していた。失意した貴族や武士は相次ぎに出家し、来世の福祉を祈ることが多かった。動揺した態勢が人間を恐慌させ、諸行無常の観念もいつの間に人々の心から生じ蔓延り、仏教はこのように俗世間を離れる最もいい口実となった。

「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。驕れるものの久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ」。この哀唱をはじめとして、平家十二巻を貫くものは、無常観であり無常の哀感である。いわゆる「無常」、つもり変化の意を表し、世間の物がいつも無限の変化にあったという仏教の基本的認識である。「無常」の生まれは、日本列島独特の自然環境にも深くかかわったと思う。地震、火山、津波、日本民族は昔からこのような災害で生きていた。人間の死去、建物の壊滅、これらの全ては人の精神状況に影響し、存在することがいかに実在的でなく、幻の感覚までも出てきたのでしょう。しかし、広く伝わる仏教こそ、その無常の現れの重要な要素だと思う。なぜ大陸から伝来した仏教が日本国でこんな差異が出たのか。またその異化された仏教に対する認識は、「無常」を形成してきたのでしょか。その両者の間に、きっと何かのかかわりがあるのである。ならば、宗教の面から、その「無常」の起源を辿りしよう。

日语专业毕业论文 篇四

中日両国の神話についての研究

[要 旨]中国は日本と隣国であり、さまざまな関係が持っている。その中に神話は 似ているところが多くて、それは両国の交流が以前からあったからと思われる。比較研究の角度から見ると、民族の境と国家の境を越えることができって、もっと広い範囲に神話文化研究が進められる。この論文は実例を列挙して比較するということを通じて,両国の神話の同じところと違ったところを捜し出して研究する。

[キーワード ] 中日両国 神話 比較

[中文摘要]中国和日本作为邻国,有着各种各样的关系。其中两国的神话相似的地方很多,应该是以前互相交流的缘故。从比较研究的角度看来,可以跨越民族与国家的界限,在更加广阔的范围里推进神话文化的研究。同时,通过列举实例进行比较,找出两国神话的相同点和不同点。

[中文关键词] 中日两国 神话 比较

はじめに

原始人は自然の中で起こったことにはなんとなく理解できなくて、それは神様の指示であると思った。だから、原始人の生活習慣、原始信仰、自然に対する態度などが神話に現すことができる。神話は以前の人類が自然を探して、知識と成果を取るの芸術の表現として、非常に魅力がある。中国と日本はアジアの東部の二つ偉い民族をとして、素晴らしい神話をうまれた、それに両国の交流も頻繁で、伝われる神話は人類の文化史の珍宝だと思われる。しかし、両国の神話はまったく同じというわけ ではなく、そして本文は比較法によって、両国の創世神話(特に中国の盤古、女媧と伏羲;日本の「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」の創世神話)を比較して、両国神話の共通所と違う所を発見する。1.中日両国についての典型神話を列挙する 1、1中国の神話

中国の神話には主に三人があり,盤古、女媧と伏羲である。盤古は天地を造るために、自分を犠牲したから、皆の印象でとても偉大なイメージである。女媧という独身神は、神話で人間の頭と蛇の体からなっている。神話によると、人間は女媧に造られた。伏羲は父系社会に入ったら、創りだした神様である。彼は女媧と一緒に世界を創造した。1、1、1 盤古

盤古は卵の中で生まれて、卵と一緒に成長した。一日中、3.3メートルぐらい高くなった。高くなるにつれて、盤古は自分の体で天と地を分けた。天と地の距離が4500万メートルぐらいで、盤古の高さも4500万メートルがあった。盤古は自分の体で天と地を支えているから、とても疲れた。とうとうに、苦労のせいで死んでしまった。盤古が死んだ後、彼の体および各器官がさまざまなものになった。[1]気、つまり彼の息は風と雲に変わり;声は雷となり;左の眼は太陽に、右の眼は月となった。そして、手足は東南西北の頂点に添えられ、胴体は泰山、衡山、崋山、嵩山、恒山の五つの山に変わり、さらに彼の血液は川となり、筋は道に、肉は田畑に、毛は星星に、皮は草や木に、歯は宝石に、汗は雨に変わった;それから盤古の体にある虫が人間に変わった。[2] 1、1、2女媧と伏羲

ある民間神話によれば、女媧は宇宙王のお嬢さんであった。罪を犯すので、人間まで派遣された。荒涼としている自然を見ると、非常に悲し い感じがした。彼女は川辺に沿って歩いて、水面に逆さに映っている自分の顔を見ながら、川の泥で泥人を作った。それで、人間が生まれた。女媧も非常に偉大な神様であった。彼女は創世しただけでなく、世界を救った。彼女は五色石を製錬して、天の穴を繕った。それで、人間は正常な自然の中で生活できた。それに、女媧は巨大な亀の足を切り落として、それによって天と地を支えていた。だから、天と地はずっと平穏であった。人間は安心して作業できた。[3]女媧は母系社会で独身神であったが、父系社会になると伏羲の妹さんになっただけでなく、奥さんまでもなった。中国の苗族の古文献によると、「天は大雨を降らし、人は誰もいなくなってしまって、ただ伏羲と女媧の兄弟二人だけになってしまった。そこで、伏羲は女媧と夫婦となることが欲しいが、女媧は兄弟であるため夫婦になるのを望まない。しかし、伏羲の求めを断ることもできずに困った。そこで、一案をこうじて、伏羲にこう言った。「もし、あなたが私に追いつくことができたら、夫婦になりましょう。」そういい終わると、女媧は大きな木の廻りを走り出し、伏羲はそれを追いかけた。しかし、伏羲はどうしても女媧に追いつくことができなかった。そこで伏羲も妙な考えを出して、廻っていて方向を逆に走り、女媧を前から捕らえた。女媧は伏羲の胸に抱かれた。こうして二人は夫婦として子を産み、子孫を作っていった。」[4] 1、2 日本の神話 1、2、1 五名「別天神」と七代神様

日本の独身で世界を作る神の中で、まず言うべきなのは世界を創造した五名「別天神」である。第1位は天之御中主神(あめのみなかぬし)という、天地が初めてなる時に高天原で現れた神である。第二位、第三位は高御産巣日神(たかみむすひ)と神産巣日神(かむみむすひ)と呼 んだ。第四位、第五位は美葦芽彦知神と天常立神と呼んだ。この五つの神は全部独身で、それに形が見えない神である。

他に、天地を創造したのは七代神様がある。それぞれ第一代は「国常立神」、第二代は「豊雲野神」、第三代は「宇比地迩神」と「须比智迩神」、第四代は「角神」と「活神」、第五代は「意富闘能地神」と「太闘乃辨神」、第六代は「于母陀流神」と「阿夜诃志古泥神」、第七代は「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」である。[5] 1、2、2「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」

『日本書紀』と『古事記』の記録によると、世界はもとは混沌とした卵と同じように、天地の分けることがなかった。それから天地は形成して、天地の中で1葦牙を産んで、そして天御中主神などの3名の産すること賢い神を化生しだした。これらの神はまた素晴らしい神を生んで、大衆の神の中に伊耶那岐神と伊耶那美神があった。伊耶那岐神と伊耶那美神は天御中主神の命令に従って、二人は天の沼矛を手に持ち、高天原と下界をつなぐ「天の浮橋」の上から、どろどろとした海原を見下ろした。そして天の沼矛を降ろしてゆっくりとかき回した。長い矛が抜き出した時、矛の鋒が垂らすもの泥と塩に沿って垂らして固まって形成した1島、名前は“おのころ島”といわれて、これは日本の国土である。二人はさっそく出来たばかりの「おのころ島」に降りていき、まず最初に「天の御柱」を立てた。天の御柱とは、神霊が昇り降りするために立てたとても太くて高い柱で、大地と宇宙を結ぶ大切な役目をしている。つぎに「八尋殿」という広い宮殿を建てた。その後、伊耶那岐神は、「おまえの体はどんなふうになっているのか?」と伊耶那美神にお尋ねた。伊耶那美神は、「わたしの体はほとんど完成しているのですが、一か所だけ、なりなりて成り合わないところがあります。」と答えた。伊耶那岐神は、「わたしの体にも一か所だけ、なりなりて成り余れるところがある。そこでどうだろう、お前のくぼんだところに、わたしのとびでたところを差し入れて、国を産もうと思うが、いかに?」と言った。伊耶那美神は、「はい。そうしましょう、では、新しい魂を宇宙からいただくために、天の御柱の周りを廻ろう」と言った。そして、まず8つの島が完成する。淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬、佐渡島、本州。その他海洋の神、山神、川神、木神、草神、日の神、月の神などを産んで、日本に整って、充実させ始めさせる。伊耶那美神が死んだ後、伊耶那岐神は地獄へ伊耶那美神を救いたかった。黄泉国から生還をはたした伊耶那岐神は、左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月读命、鼻を洗うと速须佐之男命が生まれてきた。[6] 2.中日両国の神話の比較する 2、1 共通なところ 2、1、1 一つ「混沌期」を皮切りに神話が進める

両国の創世神話の中で、すべて1つの「混沌期」が存在している。それに中日両国の創世神話の中で、すべて世界を創造する神が現れた。中国の創世神話で主な代表的な神は世界を開拓した盤古と石を精錬して天を繕った女媧である。日本では記録が完備している家系があり、「七代神様」と呼ばされた神である。[7] 2、1、2 一人で生命を創造できる

男神であろうと、女神であろうと、誰でも一人で生命を創造できる。例えば:盤古は体にある虫が人間に変わった;女媧は泥で人間を作った;伊耶那岐神は体を洗う時も生命を造ることができた。2、1、3 兄と妹の関係で夫婦の関係になった後、生命を創造する

二人で世界を創造する神話であれば、二つは兄と妹の関係で夫婦の関係になったから、一緒に生命を作った。例えば:伏羲と女媧、伊耶那岐神と伊耶那美神などである。2、2 違うところ2、2、1 独身神と偶身神転化する順序

中国の創世神話にはまず独身神、それとも偶身神が世界を創造したが、日本の創世神話には世界を創造した神は偶身神から独身神に変えてきた。女媧は後期神話で伏羲と夫婦になったのに、このときの女媧はもう独身神に属しない。伊耶那岐神は伊耶那美神が死んだ後で、独身神になった。2、2、2 神様の属性

中国の創世神は人間へ行っても神様である。しかし、日本の創世神は普通な人間になったこともある。日本創世神話に、ただ神を生み出す記録があるが、人類を生み出す記録がない。実際には、ある程度で、日本の創世神話に、神と人は1つにしたので、高天原に住んだら神になり、地面に降臨したら人になったと思われる。[8] 終わりに

中日両国は神話に対する研究がヨーロッパより非常に遅くて、研究がまだそんなに深くない。以上の研究を通じて、中日両国が昔からずっといろいろな交流があったと分かる。さらに、両国が類似な環境には自分の特色を持っての文化を創造できた、両国の原始人は自分の理解によって当時のさまざまなことを解釈した。そんなに正確品書く手も、当時の人間が独立に思考できて、進歩になったのを表した。神話というものはそういう理解を反映できる。だから、両国の神話を比較と、研究と、当時に人民の生活や思考の方法を発見できる。比較法を通して、創世神話の三つの共通所と二つの違う所を得た。それぞれは下記の通り:

共通所:

1、一つ「混沌期」を皮切りに神話が進める。

2、一人で生命を創造できる。

3、兄と妹の関係で夫婦の関係になった後、生命を創造する。

違う所:

1、独身神と偶身神転化する順序。

2、神様の属性。もう一つは、この研究を利用して、両国の間で神話についての交流が頻繁になることを期待している、または両国がもっと友好になってほしいである。

[1] 张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[M]。浙江大学出版社:140 [2] 严绍璗。2004.《比较文学视野中的日本文化-严绍璗海外讲演录》[M]北京出版社:49-50 [3] 张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[M]。浙江大学出版社:143-144 [4] 严绍璗。2004.《比较文学视野中的日本文化-严绍璗海外讲演录》[M]。北京出版社:41-42 [5] 严绍璗,中西进。1996.《中日文化交流史大系[6]文学卷》[M]。浙江人民出版社:16-32 [6] _49db9eed010006l2.html [7] 张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[M]。浙江大学出版社:127-132 参考文献 严绍璗,中西进。1996.《中日文化交流史大系[6]文学卷》[M]。浙江人民出版社

严绍璗。2004.《比较文学视野中的日本文化-严绍璗海外讲演录》[M]。北京出版社

叶显恩。2006.《简明话中国》[M]。广西出版社

张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[M]。浙江大学出版社

日本の五名「別天神」と七代神様、「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」 _49db9eed010006l2.html 古事記のものがたり:第1話「創世の神々と高天原」

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誠信 声明

私が提出する卒業論文『中日両国の神話についての研究』は、指導教員の指導の下、独自に完成させた研究成果である。本論文の中で引用されている、いかなる形で発表された文字や研究成果についても、すべて注釈をつけている。教員ならびに関係者からの本論文に対する意見やアドバイス等に基づき、訂正したことに関しては、「謝辞」において深く謝意を述べさせていただいた。本論文および資料において、不正な箇所があれば、すべての責任は私が負うことを承諾する。

論文作者:

時:

章 仏教の日本化 篇五

紀元522年百済明王は使節を派遣、日本に仏像を献じた。よって、仏教が朝鮮半島から正式的日本へと伝わってきた。『日本書紀』によると、その献上した仏像を祭るかどうかについて、当時の欽明 の大臣たちは激しい論争に陥った。崇仏派の蘇我氏は「諸外国が尊敬する以上、わが日本国も例外なしに崇めるべし」と述べたけれども、一方排仏派の物部氏は「我が国が天照大御神に守られているながら、また蕃神などを崇拝することは、カミの怒りを招く恐れがある」と強く反発したのである。両大派閥の対立は五十年あまりという、長い時間に続いた。仏教の初登場が激しい反対の声に遭遇したのは、上記の言うとおり本来民族宗教がすでに存在しているほか、当時の政治体制にも深くかかわっていた。朝廷を左右した力は、豪族保守派を代表する物部氏や、新興貴族を代表する蘇我氏であった。前からも帰化人や大陸文化に接触し先進文化に影響された蘇我氏は、仏教を引き入れる機会で、物部氏との闘争に劣勢に処する一族の権力を固めようとした。しかし、伝統権威や民族宗教を支柱とした物部氏は、外来神の仏の伝来に対しては必ず反対の声を響かせるしかなかった。それにもかかわらず、歴史の進むプロセスはいつも止まることがないのである。どんどん政を独断してきた物部氏に、やがて皇室からの不満が出てきた。聖徳太子と手を組んだ蘇我氏は物部氏を潰してから、新たな宗教――仏教がようやく日本全土に伝わることができた。

日语学科专业毕业论文 篇六

近年随着语言教育的不断发展,语言专业学生数量剧增。随着日企进入我国,日语专业的学生数量明显增加,但毕业后能否找到与本专业相符的工作成为各界关注的焦点,同时也是我们日语专业学生关心的问题。本次研究主要是站在未毕业的日语专业学生的角度,思考并研究日语专业就业问题,为本专业学生提出建设性方案。

一、研究概况

1、研究目的。通过分析日语专业学生就业问题,找出与之相对的应对措施,帮助日语专业学生在掌握原有的日语专业知识基础之上,找到符合用人单位要求的其他技能要求。

2、研究对象。本次研究主要以我院2009~2012级日语专业毕业生和目前在校的日语专业学生,以及常熟市范围内(主要以东南开发区为主)的日资企业的人事部门、日语专业的从业人员为主要调查研究对象。

3、调查研究方法。主要是采用数据分析、问卷调查辅助的市场调查、电话邮件采访以及文献查找法来展开研究。

二、研究内容

1、在校生现状。对目前在校生现状包括课程安排、校方培养计划进行资料整理,列出日语专业学生在校所学内容。通过分析得出目前哪些课程是对工作影响很大,哪些是未涉及到而企业恰巧需要的。

2、毕业生调查。从近年来我校日语专业毕业生情况,包括毕业前志向、毕业后实际从事职业以及在其工作中日语的使用比率等,来分析目前日语专业学生的就业方向和选择。具体列出脱离日语工作、单凭日语工作以及日语与会计、IT、管理相结合工作的比率。

3、用人单位需求。从市场需求的条件、用人单位对日语专业毕业生其他方面能力要求方面出发,进行调研,得出市场调查结果。

三、研究调查结果分析

1、课程内容分析。根据日语专业四个年级课程安排及培养计划,得出如下分析:

①基础知识方面:日语会话、听力、语法、口译、作品选读。

②操作实践方面:日语文字处理、日资企业见习、日语演讲、国际会展实训,学年设计。

③翻译方面:基础日汉互译、商务模拟翻译、高级口译。

④商务方面:商务日语会话(新设:商务日语写作、电子商务实践)。

⑤其他知识扩充:职场英语、国际金融、进出口贸易、报刊新闻选读。

企业所需要的学校课程都有涵盖(企业所需由后文4可知):会话(商务日语会话)、写作(商务日语写作)。课程中未曾涉及日语商务电函,不过这一课程有开设英语商务电函,我们应自行弥补学习。我们所欠缺的是:

①对自己感兴趣领域的涉足,应当自行学习培养。

②对启蒙基础知识,未掌握、实际运用那少,应当扎实掌握,利用学校提供的实践机会。

2、毕业生调查结果分析。我们采用自制的“日语专业学生毕业生情况调查”问卷,运用随机抽样的方法。通过网上问卷的方式进行,还有部分采用电话询问的方式,将得到的回答也已以数据形式反映(样品数为115,回收的有效问卷63份),具体问卷内容及数据分析如下所示:目前从事的工作是以下哪个方面?由数据统计可以得到,2009~2012级日语专业毕业生目前从事与日语专业无关的工作占总数的20.63%,其次则是单凭日语工作的为19.05%,剩余均为从事日语+其他。由此归结出,日语专业毕业生在实际就职中大部分都是将日语结合其他技能进行工作的。结合最多的有:财务、人事、计算机、采购、其他(包括国际贸易、市场营销、产品设计)。另外,通过电话访问得知:从事日语结合金融、人事、计算机的毕业生均在毕业前取得相关证书。从事其余类型工作的毕业生反映,企业有入职后的专门培训与学习。关于问卷中涉及的日语毕业生“实际工作环境中用到日语哪方面更多”这一问题调查,有77.78%的毕业生表示会话在实际工作中用得更多,仅次其后的听力为69.84%,写作则为30.16%。此问题主要是为了调查日语专业学生在实际工作中日语的有效利用率。同时,也一定程度地反映了课程与实际的差异,从而得出我们应该加强哪一方面的训练,并及早地发现自己是否背离日后工作的需要。结果显示,会话与听力占比例最大。当然,从电话采访中可知,日语翻译与文案编辑者,仍会用到写作。因此要看个人选择,但是从调查结果可以看出的是:会话与听力为每一项日语工作者的最重要的能力。“在工作中最后悔没具备哪方面知识?”统计结果显示:日语专业知识使用(商务、金融)为42.86%;计算机方面知识为12.7%;企业岗位专业知识为7.94%。本题则是为了发现工作中应具备的其他能力大多有哪些,帮助在校生利用剩余时间进一步武装自己,多学以备不时之需,但也并非遍地撒网,而是有目的地扩充知识。由此看出,日语专业毕业生在实际工作中,还需具备或应当扎实的知识技能有:其他外语、日语敬语、邮件函电、具体领域术语涉猎。

3、在校生现状。在校生现状主要包括心理现状,对日语以及课程、未来走向的态度看法调查。通过网上问卷的形式对目前日语专业学生进行了问卷调查,以此为了进一步发现学生对课程的反应与实际要求相比的差距性。调查结果如下:当初选择日语专业原因?有44.68%的学生表示没有目的地选了日语专业(服从调剂),有38.3%的学生表示自己是对日语及日本文化感兴趣;8.51%的学生为了以后就业;仍有8.51%为了去日本发展。另外,对于“除了日语,你是否还获得了其他类的证书”的问题调查,从问卷结果看出68%的学生目前暂无,剩下的32%中以计算机和会计为多。从在校生的现状及其对日语专业的态度进一步推进研究的进展,得出大多数日语学生的意图与态度是积极的,并且有大部分的日语专业学生已选择将日语结合其他技能作为自己日后从业的砝码。

4、企业市场调查结果分析。以常熟地区主要是东南开发区以及周边的日资企业(三菱电机自动化、东南相互电子、纬创资通、丰田物流)的人事主管为对象,主要采用问卷辅以问题采访的形式调研,部分采访则是通过日语从业人员的传达完成。内容主要是日资企业对日语专业毕业生的知识结构和工作能力的要求以及相关建议。采访内容:

①目前公司是否需要日语专业人员。

②日语从业人员的主要工作岗位或是负责范围。

③对日语专业人员的相关标准,是否硬性规定证书获得。

④应届毕业生是否受欢迎,工作中更需要口译还是笔译。

⑤除了日语,还需具备哪些技能。

⑥用人单位对日语专业学习者有哪些要求和建议。

受访用人单位回答总结如下:用人单位对日语的口语要求更高,但同时也补充了,岗位不同要求也会有一定不同(日语翻译则侧重于翻译水平和写作能力,不过大多数公司都是复合岗位,口语是基础)。受访用人单位表示,希望毕业生会商务电函基本回复,具备基础的计算机操作技能(办公软件足以),具体的领域专业知识,毕业生不必太拘泥,企业会有后期培训。对于能善于表达自己、有明确主张看法,并能及时处理事物的人,用人单位表示很乐于采用。受访者认为从业的日语毕业生的欠缺之处是缺乏自信、不善表达自我主张。日语从业人员的从事的不单是日语,大部分为:采购员、会计或出纳、秘书、业务担当、总务、翻译、市场销售、财务秘书。另外,用人单位受访者还表示,应届毕业生受欢迎,有前途,是年轻血液。同时表明,对求职者的要求不是刻板不变的,证书不是硬性要求,主要看重你能否听得懂说得出。有些水平是可以在日后锻炼出来的,但并不代表不要求会,前提是你要会并能说出,水平是另一回事。

四、调查综述

综合上述的调查结果分析,日语专业课程安排与企业要求大致是相符的,也是更趋于实践实训,但日语专业学生欠缺的是将基础学习扎实。根据调查得出,公司口语与商务日语会话这两项是重点。对于复合型人才,根据调查数据可知,企业更倾向于具备金融和计算机或者其他专业的日语毕业生。而大多数人都只是在单一的语言文字上熟悉,其他知识面较欠缺。企业所需要的人才趋势是综合能力较强的复合型人才。根据毕业生的调查可知,金融与计算机等复合技能是有必要的。这是目前得出的有利于在校生的有用信息。在此基础上,在剩余时间熟悉某一领域则更能适应用人单位择人要求。要有所长也要有专长。以上就是此次调查研究的总结与汇报。希望能对日语专业在校生起到一定作用,为以后努力的方向提供一些帮助与启发。

五、结语

本次研究调查为期十个月,课题小组第一次站在未毕业日语专业学生的角度去研究日语专业毕业生就业问题,从而找到让自己适应就业需求的有效方法。整个研究过程从前期的`资料收集以及汇总搜集毕业生的联系方式、设计调查问卷、在网上公开问卷并收集,到后来的在招聘会现场进行市场调查,进行电话采访、用人单位采访、与毕业生交流,这每一步的进展都离不开小组成员的分工与合作。问卷的设计是小组成员集体智慧的精华,虽说可能并不能代表所有学生的心声,但也应该能反映绝大多数学生的想法。在研究过程中,有些采访问题也是主要依据研究方向而设置的,未能做到具体细微,但精华与有用信息已写入报告。希望本次研究调查能对日语专业在校生起到一定建设性作用,为以后努力的方向提供一些帮助与启发。最后,我们还要感谢李敏英老师的指导以及赵静、王京钰、闫飞老师为我们提供的帮助。

参考文献:

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[2]刘琦霞。浅谈国际化和日资企业所需的专业人才[J]。对外经贸实务,2009,(5)。

[3]秦秋,程冷杰。复合型外语人才培养的研究与实践[J]。中国大学教学,2006,(9)。

[4]黎娟。日语专业学生的就业前景[J]。企业家天地,2009,(10)。

.2 『平家物語』における無常観 篇七

[1]《平家物语图典》上海三联书店20058

[2]周启明、申非译《平家物语》人民文学出版社19846

[3]西乡信纲《日本文学史》人民文学出版社1978

[4]石田一良『日本文学史』神奈川東海大学出版社1994

[5]花山信騰『日本の仏教』三省社19847

[6]松井嘉和『日本文化史』凡人社19955

[7]石田一良『カミと日本文化』ぺりかん社1983

[8]山折哲雄『日本の神々の始原』平凡社1995

[9]川崎庸之『日本仏教の展開』東京大学出版会1982

[10]方海燕《论日本神道教的现世性特征——以中世以前神道和佛教的相互关系为中心》日语学习与研究2007,2:39-43

章 序論 篇八

2.1 物語の成立

平清盛を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、「平家の物語」として「平家物語」とよばれたが、古くは「治承物語」の名で知られ、3巻ないし6巻ほどの規模であったと推測されている。それがしだいに増補されて、13世紀中ごろに現存の12巻の形に整えられたものと思われる。作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好法師 の『徒然草』によると、13世紀の初頭の後鳥羽院 のころに、延暦寺の座主慈鎮和尚のもとに扶持されていた学才ある遁世者の信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人生仏なる者が協力しあってつくったとしている。後鳥羽院のころといえば、平家一門が壇の浦で滅亡した1185年から数十年のちということになるが、そのころにはこの書の原型がほぼ形づくられていたとみることができる。

この『徒然草』の記事は、たとえば山門のことや九郎義経のことを詳しく記している半面、蒲冠者範頼のことは情報に乏しくほとんど触れていないとしているところなど、現存する『平家物語』の内容と符合するところがあり、生仏という盲目の芸能者を介しての語りとの結び付きなど、この書の成り立ちについて示唆するところがすこぶる多い。ことに注目されるのは、仏教界の中心人物である慈円のもとで、公家出身の行長と東国の武士社会とのかかわりの深い生仏が提携して事にあたったとしていることで、そこに他の古典作品とは異なる本書の成り立ちの複雑さと多様さが示されているといってよい。

日语学科专业毕业论文 篇九

一种文字的产生绝非一两句话能够简单的表述出来,不管是何种文字都是经历了漫长的历史演变,最终千锤百炼形成的。作为人类智慧与经验的集合体,文学作品是文字记载的手段得以流传,能够在一定程度上反应出文字的形成与发展。对于日语文字的研究,文章主要从日本古典文学的角度出发进行研究。

一、汉字的传入及万叶假名

公元四世纪,汉字经朝鲜半岛传入日本。之前,日本以口头语言为主,没有文字。汉字的传入开始日文章字的出现。也使得日本大量的古代神话、歌谣、传说得以记录保存。随着佛教、儒教等文化思想随着文字的传入,进一步的促进了日文章化的繁荣。而汉字传入日本之后,如何被接受与利用,是研究的一个重点。

《古事记》是日本第一部文字记载书籍。公元712年前后,日本命令太安万侣对稗田阿礼习诵的历史资料用文字进行记录。该书中,记录了自创世以来至时代的历史及神话传说。之后,相继出现记录创世神话以及统治历史的《日本书记》和对风土民情记录的《风土记》。以上三部著作都是采用汉字进行记录的,只是在汉字的功能使用上存在差异,很多地方采用变体的汉文字,主要原因是日本人在学习韩文字时,以日本式或者是生硬的表达造成的,该文体不是纯正的古汉语,因此也成为变体汉文;书籍中的歌谣所采用的文字后来被称之为“万叶假名”,该文字不是纯正日语中的假名,是在完全背离汉字意思的基础上,将汉字作为表音符号进行使用对如本固有词汇的读音进行表示。《万叶集》中大量的使用“万叶假名”,如“安米”表示“めめ”(读作ame,“雨”的意思)。由此可见,古代日文章学中,主要是采用汉字记录、汉文撰写的,主要是由于汉字传入日本时间较短,还没有形成日本本土文字。对“万叶假名”和变体汉文的应用,表现出古代日本人使用文字的一种倾向,在记录历史资料时,采用汉文记录,而对于抒情类诗歌的记录多以假名进行。“万叶假名”的应用也为以后的平假名和片假名的形成奠定了基础。

二、平假名的形成

平假名是在公元九世纪前后产生的,而将其称为假名也是后世出现的,最初称为“女手”,主要意思是女子使用的文字。有假名既有真名,真名也就是汉字。根据这一点可以推断,在假名出现之前,日本书写所采用的文字只有汉字一种,在官方记录和历史文献记录中管饭的得到应用。受日本封建社会发展的影响,朝廷中以男子为官为主,仅有小部分贵族男性才有机会学习汉字,对于当时的如本人而言,汉字是一种艰涩难懂的文字,所以百姓及女子很难接触到汉字的学习与使用。由于家庭式的私塾教学,为贵族女性的学习提供了机会,略有学识的女子在偷学汉字的时候,为方便记录,往往书写的比较潦草,简化了汉字符号,形成“女手”,也就是后来的“平假名”。平假名的应用一度受男性的排斥,但其由于简便书写受到文人的亲睐。

三、片假名的形成及发展

与平假名不同,片假名来源于汉字的楷书,取出负荷声音的汉字的一部分进行简化而来,是为了训读汉文而出现的,尤其是在佛经传入日本后,由于佛经全部是由汉字书写而成,日本的僧侣及文人在阅读佛经的时候,受发音不同的影响,为了记住汉字的日语发音,阅读者在该字旁,加注一个汉字进行表音。由于字间距的空间有限,因此采用汉字的偏旁部首来代替该汉字。就形成了最初的片假名,主要是以表音符号存在。到公元十世纪,片假名发展为独立的文字。由于该文字主要用于佛经阅读中,很受僧侣的亲睐。到公元十一世纪,片假名被广泛的用于记录一般性文章及诗词歌赋中。古典文学中,第一部采用“汉文训读”文体的文学书籍是公元12世纪出现的《今昔物语集》,也就是在汉字旁边用小字号的片假名进行标注,由于书中数千故事都是以“今ぃ昔”开头,以“卜ナ厶语リタヘルヤ”作为结尾,因此被称为《今昔物语集》。至此,片假名已经不单是作为表音符号,已经成为文章一种文体,有其固定的语义存在。平假名的发展经历了漫长的时候,现有的片假名文字主要是在明治时期确定下来的。二战之后,日本对文字的使用进行了规范,规定平假名和汉字混合书写主要用于普通文章,而片假名用于拟声词、外来语等的表述。至此,日语文字的使用规范得以成型。

四、结束语

通常情况下,认为日本是一个对外来文化善于接受和吸纳的民族。而对于古代日本而言,一致在效仿文化繁荣、历史悠久的邻邦中国。从文艺思潮到政治制度,从城郭建筑到水稻种植,古代日本从中国大陆文化中接受了无以计数的养分,充分的进行吸收,促进了日文章化的兴盛和繁荣。文字作为日文章化发展的基础,从变体汉字到万叶假名、平假名、片假名,日语文字经历了漫长的发展过程,并通过日本古典文学充分的反映出了日本在接受和吸收外来文化的过程。

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